当連合会について

ご挨拶


医師連会長就任のご挨拶

岩手県立病院医師連合会
会長 小山田 尚

 この4月から中野達也先生の後を引き継ぎ、医師連会長を拝命しております、中部病院外科の小山田  尚です。医師の働き方改革、コロナ禍など、医師にとっていろいろな問題を抱えている昨今でありますが、中野前会長、並びに佐藤耕一郎先生ら歴代の会長の先生方が行われてきたことを引き継ぎ、誠心誠意努めさせていただきます。
 医師連は基本目標を「県立病院職員が,医療に集中できる環境を構築する」として活動を続けておりました。平素より医師連の会員の皆様は、全国一ともいわれる医師不足岩手県下で、患者さんのために日々の診療を一生懸命やっておられます。この努力をより有効に患者さんのため、周囲の医療者のためになるよう、その環境を整えたいと考えております。今年度からは、そのために、①仲間との結束、親睦を深めること、②多様性を許容し、負担をより抱えている医療者の方の力となること、③将来を見据えてきちんとした制度設計をすること の3点を中心に据えて活動したいと考えております。
 昨年度、医師連の会員数は720人を超えました。この人数の医師連の皆さんが結束することは大変大きな力になります。いろんな考え方、意見があると思いますが、お互いを許容し、尊重することで、諍い、対立を抑えて、力として取りまとめていきたいと考えています。その第一歩として、この2年ほどコロナ禍で、人と人が接する機会が少なくなっていましたが、ITを活用するなどの方策を加え、可能な限り、会員同士が顔を合わせる機会を増やすなどをして、医師連の皆さんの親睦を深めていきたいと考えています。
 最後に、会員の皆様は常日頃、患者さんのためのことを考えて診療にあたっていると思いますが、医師連の会員として、周りの医師、スタッフのためになることも考えていただきますこと、よりよい医療環境を整えるために、皆様のご意見、ご提案をいただけますことをお願い申し上げます。

令和4年6月

沿革


岩手の県立病院は1950年(昭和25年)に、それまでに存在していた厚生連の病院と国保連の病院をまとめて発足したわけですが、当初から各病院を横断しての勤務医全体の意思表示の場があったわけではなく、「県医連」が結成されるのは県立病院発足から12年後の1962年1月のことです。それ以前は各病院ごとに、スタッフの確保、設備の充実へ向けての大変な努力があったことと想像されますが、残念ながら勤務医の活動の記録が残っておらず、詳細は不明です。
当時の岩手県立病院は、医師の充足率も医療設備も極めて不十分であり、何より医師の待遇が悪かったため新たな医師確保にも支障を来すといった状態が続いていたわけです。

1961年12月に中央病院の5人の医師が、県立病院全体の医師の大同団結の必要を訴え、翌年1月13日に岩手県立病院医師連合会が発足いたしました。しかしこれは労働組合のように雇用者との交渉権を法的に認められた団体ではなく、いわば任意に設立された団体であるため、様々な切実な要望も往々にして額を値切られ、あるいは拒否されるといった時代がしばらく続きます。

県医連と医療局とが、公的に協議できる場をつくるべく、当時の県医連執行部がその職を賭して当局と交渉し、県議会に働きかけ、マスコミを通じて県民にも訴えたのが、1971年のことです。これらの努力がようやく功を奏し医療局が県医連を公的な交渉相手として認め、翌1972年より県医連代表の12名と、医療局長以下医療局幹部との協議機関として1号医師協議会がつくられ、また院長会の代表12名との協議機関として2号医師協議会が発足し、以後医師の待遇改善や広域での医療ネットワークの推進、医療設備委員会の設置等が精力的に協議されていくことになります。

具体的には県立病院の院長人事が、主として大学医学部教授会の意向で決まっていたのに対し、当該病院医局の意見も入れるよう運動したり、(これは結局医療局長に拒否された)、各県立病院の医療設備の公平な充足、合理的な機器の配備を求めて協議(これは、1974年より医療設備整備調査委員会として発足)する傍ら、種々の医師手当ての増額、不合理の是正のための活動が続きました。現在の県立病院勤務医の給料、各種手当は、後から追加となった超勤の定率部分を除けば、この時代の県医連の活動によって形づくられたと言えるようです。

1980年代は世の中の景気が右肩上がりでよくなっていた時代であり、民間の給料の上昇に連動するように基本給や、日直手当、応援手当等が上がっていった時であり、金銭的な待遇については、要望が受け入れやすい時期であったため、医療局との協議の中味は医療設備の充実、救急医療体制の整備、医学大系図書の整備や心電図、レントゲン写真等の医療情報の交換と地域での県病間のネットワークの整備といった事柄が主となっていきます。
しかし当時でも各県立病院の医師充足率は低いままであり、必然的に救急業務や日常診療でのオーバーワークの問題は常に同時に取り上げられ議論をされてきたことでもありました。

1990年代に入り、学会認定医、専門医制度に伴う学会出張旅費の値上げや、学会発表用スライドの作製費、文献検索の費用といった医学研究や学会活動へのサポートの問題や、各病院間で日当直の負担が大きく差があることから、日当直の応援、診療応援の問題が主な協議事項として取り上げられていきます。
又この頃から、医療局で策定する県立病院長期経営計画についても、県医連の立場か医師充足率の改善、広域中核病院を中心とした各医療圏でのネットワークの強化等を提言し、協議するようになり、それらの達成の程度については現在に至るまで県医連に検討委員会を残して検討を続けてきています。

1990年代半ばには、公務員の労働時間の短縮に伴い4週6休体制を経て、週休2日体制へと移行しましたが、ここでも医師不足に伴う日当直の負担増が問題となり、特に小規模病院では一人あたりの回数が多いこと、中核病院では夜間の急患が多くほとんど睡眠をとれずに翌日の業務をこなさなければならないことが浮き彫りにされました。県医連内に検討委員会を設置し、日当直応援について議論を続けていく中で、少しずつではありましたが、各地域の中核病院から小規模病院への応援ネットワークがつくられていきました。
またこの時期、超過勤務手当が大きな問題となりました。超勤手当の計算方法が変更となり、このままでは原資が不足するからとの理由で医療局より超勤手当の総量規制が提案され、県医連理事会、各病院医局での何回かの議論の末、現在の超勤支給の基となる定率支給+一部実動分支給で一旦合意しました。しかしその後も当時の支給範囲に入っていない緊急手術や検査、夜間休日の呼び出し等についても検討が重ねられ、医療局との何回かの交渉の末、現在の形に落ち着きました。結果的に超勤分の総量で約5割の増額になり一部定率化としたことで給与のベースアップ的効果ももたらしましたが、医師不足に伴う業務過剰による超勤の実態が表に出にくくなったという問題が残されました。

最近の主な検討事項としては、県立病院の医療情報のコンピューター化、システム化の問題があります。医事情報のコンピューター化から始まった県立病院の情報システムを、今後どうしたらよいのか、専門的、かつ長期的な展望をもった検討が必要となりそうですが、2000年1月より医療情報システムをテーマにシンポジウムを開催し、2000年11月には第2回目のシンポジウムも開きました。2001年には医療局内に医療情報システムの検討委員会も設置され、県立病院の情報システムやネットワークをどう構築していくのがよいのか協議も始まりました。今後は各病院での具体案についての検討が必要になってくるとおもわれます。